そういえば、あのときこうだった。今考えてみるとあのことはこう解釈できる。我が子の場合と比べるとこうだった。・・・との文を寄せてください。
2005年10月10日
学年について(学年経営) 濱中正男先生から
「生徒の能力を限りなく伸ばそう。自分の専門や得意な分野を基に、生徒のためになることは遠慮なく実行しよう」との考えで、先生方は学級間で競い合っていました。ですから、学年の特色や学級のカラーが今より強く出たのだと思います。
そういえば、あのときこうだった。今考えてみるとあのことはこう解釈できる。我が子の場合と比べるとこうだった。・・・との文を寄せてください。
そういえば、あのときこうだった。今考えてみるとあのことはこう解釈できる。我が子の場合と比べるとこうだった。・・・との文を寄せてください。
この記事へのトラックバック
親が学力面の向上を意識しすぎるという落とし穴はあるものの、昔の附属は、一応この三要素がそろったところからスタートしていたと思います。
そういった意味で、先生方はある意味学級経営がやりやすかったのでは、とも思います。
教育実習が長期にわたるため、遅れた授業を短期間に取り戻せる、物わかりのよい子を入学させる必要があった、わけなのですが、実際には先生方にしてみれば「この子たちを使ってもっと難しいことをさせてみよう」という衝動に駆られたにちがいありません。
また、高度なことを成し遂げるには、それなりの集中力や根性が必要なわけですから、タマさんなどは皆にカツを入れる「嫌われ頑固オヤジ役」を敢えて買って出ていたのかもしれません。
ただ、「地震 雷 火事 親父」なんていう言葉が死語ではなかった時代でしたから、タマさんがその役を買って出なくても、それなりに、緊張感はあったようにも思いますが。小学校の頃から、当たり前のように整列するときはビシッとそろってましたから。
俺のやり方が通用するのも君たちの代が最後だ、とおっしゃっていましたが、まさに、そのあたりから頑固ジジイも頑固オヤジも減り、優しい時代へと移り変わってきました。
優しさと甘さをはき違えないようにしなくては、と思います。