2005年10月10日

父母と教師の関係について  濱中正男先生から

 あのころは「お母様方に育てられた」と今でも私は思っています。個人面談以外の場も多くあり、お母さん一人あたり平均1時間くらいは話をしていたので、お互いの理解の度合いが密だったのです。そのような場を通して「これだけの支援が在れば何でも出来る」との感触を私は得ていました。その結果のよい例が、学活の時間に屋上で「だるまさんが転んだ」をしたいとの要望を平気で許可し、怪我人を出してしまい、これはまずいことをしたと思いましたが、特に問題視されることなくてすみました。今では、管理職の立場から見ると、とんでもない学級担任ということになり、家庭に謝罪にゆくことはもちろん、場合によってはマスコミで学校事故として伝えられかねないことです。ところが、怪我人の母親は「ご迷惑をおかけして申し訳ございません」といい、学校側をせめるどころかわびる気持ちを持っていたのです。本当に有り難いと感謝すると同時に、このような父母の支援に応えなければいけないと痛感し、学級や教科への指導に一層努力するようになりました。
 そういえば、あのときこうだった。今考えてみるとあのことはこう解釈できる。我が子の場合と比べるとこうだった。・・・との文を寄せてください。

posted by フラスコ会 at 23:31| 東京 ☁| Comment(3) | TrackBack(0) | 濱中先生からB 父母と教師の関係について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
この話はおそらく、私の母親の話でしょう。学校での事故、怪我で教師の責任を問う風潮がありますが、大いに疑問です。「危ないから」と無難な実験、無難な工作ばかりさせられてきた最近のエンジニア達は、ろくにナイフも使えず、直感的に意見を察知する感も働かないため、製造現場でとんでもない事故を引き起こします。モノづくりニッポンの生涯になりつつあること間違いなし、自己責任と学校責任の境界線は難しいですが、考え直すべき時期に来ていると思います。
Posted by 鴨下 隆一(カモ) at 2005年10月29日 12:49
最近は、学校をベビーシッター代わりに使っている親がいるような気がします。責任分担も学校は本来(狭義の)教育即ち勉学を担当し、家庭では躾や常識、個人としての責任を教える場であるはずです。ところが最近の家庭は食べて、TVを見て、ゲームをして、寝るだけみたいな場になってしまっている。

私達の時代には、子供の躾や態度がなっていないと「親の顔が見たい」と言われましたが、今は過保護どころか子育ての責任を放棄している(責任を認識していない)親が多いのは情けない限りです。

子供は大人を見て、その行動を真似て育つのです。親や教師がその良い手本になっていないのも残念なこと。

学力の低下よりも人間性の低下が心配です。
Posted by ヒロ at 2006年01月13日 15:13
そうねえ、この問題は奥が深いと思います。

2年ほど前、長男が中1になったころ、1年間だけでしたが、週3回渋谷まで仕事に行っていたことがありました。
結局、この兄ちゃん、不良の道を歩み出し、目が離せなくなったので仕事はやめました。
久々に吸った外の空気は新鮮でしたが、私に非常事態の我が家と忙しくなる一方の仕事を両立させるのは無理でした。

このときの仕事場にフルタイムで働く2人の小学生のお母さんがいて、ほとんど保護者会以外の学校行事に関われない様子でした。

彼女は仕事熱心で人柄も良く、いいお母さんに見えましたが、たまに学校へ行くとみんなから白い目で見られているようで、仲のいいお母さんもいない、と言ってました。
気の毒に、と思いましたが、立場を変えて、自分の子どもたちの学校へ目を向けてみると、確かに学校の役員やその他の活動に参加しないお母さんに対して、たまに保護者会で会っても皆話しかけたりしていません。

そういうお母さんとは、役員の苦労話も共有できないし、何かにつけ共通の話題がないから輪に入れない、という事情もあります。

また、大変なのは誰も同じ、子どもがお世話になっているのだから学校に協力するのが当たり前、お金もらえない仕事はやらない、ってこと?役員決めの時はいつも欠席だし。と露骨に避難する人もいます。

もちろん、仕事も学校役員もこなす人は大勢いますが、全ての人に可能というわけではありません。

家庭の事情でやむなく働きに出ている悪戦苦闘のお母さんたちも大勢います。

不況のせいで田舎に戻る人、リストラで生活が変わってしまった人。身近にたくさんいます。大手に勤めていても危ない時代です。

そんなとき、生活が変わって一番犠牲になるのは子どもなんですね。
きのうまでいたお母さんが働きに出てしまう、慣れない仕事をして帰ってくれば機嫌が悪い。

かまってもらえず遊び相手はゲーム。
みんな必死なんだけど、なんだかうまくいかないことばかり。歯車が狂い出す。

1週間くらい前の朝日新聞の朝刊に、東京や大阪では4人に1人が就学援助を受けている、この4年で4割増だ、とありました。
パツンパツンの中で必死で子育てをしているのです。
少子化の裏には経済的な問題が大きく関わっている、ということを国もマスコミもすり替えて報道しているように思えます。
女性が働きやすい環境を整えて、少子化に歯止めをかける=女性が仕事をやめたら収入が減り子育てどころではなくなるから、というのが本当でしょう。

どう考えても、キャリアを積んで、やり甲斐のある仕事にハマッてしまったから子どもどころじゃない、という女性の方が圧倒的に少ないような気がします。

子どもを生んでも経済的に仕事をやめられない、というのが現実でしょう。

あとは、今の保育園は子どもが37℃の熱を出したと言って職場に電話をかけ、お迎えを要請します。

子どもがひとりならまだしも、2人いたら「呼び出しの嵐」で仕事どころではなくなると思います。

だから、仕事を続けたかったら1人で我慢するしかなくなる。
あとは夫がどこまで協力できるか。
附属小でも、子どもが熱を出し、共働きだから、と授業途中で帰ってしまう男性教員がいました。先生はいつもいてくれるもの、という安心感も崩れています。

問題はひとつではなく、あちこちでほころびが出ているのが現状です。

公立の学力低下はひどく、みんな無理してでも塾に通わせています。そして私立へ行かせたがる。勉強なんか親が教えればいいじゃない、なんて言えるのは附属出身者だから。
世間のレベルはそれが標準じゃない。
娘が附属小に通っていたとき、4年生の段階で、塾に通っていない子はクラスで3人だけでした。

昔の附属のイメージでいた私は、小学校から塾なんて、と娘を通わせずにいましたが、大失敗でした。
暗記物などの知識レベルが皆無です。
昔と違って、朝は一発書き取りから、なんていうマメな指導もなく、歴史も江戸時代あたりで終わってしまう先生もいる。

土曜が休みになった分、カリキュラムの組みようがない、というのも事実。
これが中学になると、私立と比べて英語の時間数など半分くらいしかない。
これで何ができるのだろう。公立の先生もやる気が失せてくる。

脱線しましたが、躾けの問題は時間をかけるほど質が高くなる、というものではないのでやり方はあると思います。

ただ、そういったお母さんたちに精神的なゆとりがないのも事実です。

附属出身者は精神的に強い人が多いから、ぶつかりながらもいい方向を模索する前向きさ、明るさがあるけれど、世間一般はなかなかそうもいかない。

けなげに一所懸命頑張っているお母さんが、突然亡くなってしまうケースが去年2件もありました。

もっともっと、社会全体が協力し合って、たくさん議論して、どうしていったらいいのか模索しないといけないんだと思います。

Posted by マキ at 2006年01月13日 20:04
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:


この記事へのトラックバック
×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。