てか、本当にあんまり、いやもしかすると全然、授業を聞いてなかったのかもしれない。
目を開けて寝ていたか(大学卒業まで続けていた私の得意ワザ。ただし、無理やり開き続けていると机とかノートがぐるぐる回りだすことがあり、気分が悪くなります)、あるいはほかのことを考えてたか……。
ゴメンナサイ、諸先生方。
──がっ!そんな私も、フチム先生の国語は好きでした。
それというのも当時から創作の道に進みたいと思っていたんで(カッコつけてますが、要するに漫画家志望だったってだけです)「シャレたセリフとか書くのに、国語がバカじゃダメだ」とか思って、ちょっとは勉強するつもりもあったんですね。ハハハ。
「籠よ み籠持ち 堀串もよ み堀串持ち……」と朗々と読み上げるフチム先生の姿には、“俺って本当に、萬葉集とかが好きなんだぜ”という気配が漂っていて、そういう生き方って素敵、と思ったりしてました。
教師でも、好きで教師やってる人と、生活のためにやってる人と、両方いるわけで、フチム先生は絶対前者だったと私は思います。
そうそう、マキムラも書いていたけど、社説の品詞分解はけっこうな労働でしたよね。でも、あんなことでもなけりゃ私はマンガばっか読んでて新聞なんて読まないんで、「へー、世の中こんなコトが起きてんだ」とか感じ入ったりして、新鮮だったです。
「キャラ立ち教師」ナンバーワンは、なんといっても美術の伴勝雄先生。
風景画の時間に「地べたと空の区別がついてないじゃないか」と怒られたの、覚えてますか?
緑色が「ビリジァン」なんていうこじゃれた名前で呼ばれているなんていうのも、伴先生に教わったコトのひとつ(笑)。
ちなみに、学校の中心部からちょっと離れた美術室の隣には、先生のお部屋(執務室)がありました。
その秘密めいた部屋はなんとなく気になる存在で、ある時、ちょっとした用事にかこつけて休み時間、覗きにいったことがあるんです(本田和子と、小山尚子が一緒だったような気がする)。
先生は当時、高タール煙草の「しんせい」を愛しておられた。
部屋は煙草の香りと油絵具の香りがいりまじった、複雑な大人の匂いが充満していました。そして、狭い室内には先生の「個人的な作品」が何点か、並んでいた……。
それを観たとき、声には出しませんでしたが、(えっ?)と思いました。伴先生の油絵は(あくまで私の印象ですが)、暗くて、複雑で、内向しているように見えたのです。
子供には窺い知れない本質めいたものがそこにあって、なんか伴先生のイメージがちょっと変わってしまった。
今にして思うと芸術家なんだし、ひとりの大人としていろいろ抱えてたわけだから当たり前ですが、大人の奥深さなんて考えたこともなかったから、軽いカルチャーショックだったな。
懐かしいですね。
こうしてどんどん記憶をひもといていくと、学校という、ひとつの抗し難いルールのなかで動いている小さな社会が、私は「苦手」だったな、とそんなことも思い起こします。
友達や、先生たちが個人的に苦手だったのというのではなく、学校という固まりから発せられる「ハミ出してはいけない感じ」や、「前向きな感じ」が苦手だったともいえます。
いま私のところには、ある漫画家志望の不登校の少年が、ときどき作品を持って現れます。
彼をみていると、彼が学校に行かない理由と、私が昔、学校という固まりが苦手だったってことが、なんとなく似ている、と思うことがある。
もしかすると私が今の時代に中学生だったら、3日に1回はサボッていたかもしれない。あるいは、全然いかなくなっちゃったかも……。
そうしなかったのは当時の付属中学の発するパワーのお蔭だったですね。
パワーといっても、正直言うと「学校サボるやつは落伍者だ!」的な意味でのパワーというか、抑圧が大きかったかな。
それが8割で、残り2割が強力な安心感。「学校に来ていりゃ、とりあえず安心」みたいな、家庭の次に自分を守ってもらえる場所なんだなってことが、頼もしくおっかない
先生たちから感じ取れたんだと思います。
いまの不登校の子供は、そういう抑圧も、安心感も、学校という固まりから感じ取れていないのかも……。
かつて「ハミ出しっ子」だった立場からいうと、「ハミ出しが許される状態」って、いいことじゃない気がする。
付属中学は強く正しくまっとうな生徒が多かったから、自分がハミ出しているのだと自覚させられたし、それが許されずにキツかった面はありますが、どうにか折り合いをつけられてよかった。
それすら放棄していたら、厳しい社会の荒波の中でどうして生きていけただろう、と不登校の子供に自分を重ねて思う今日この頃です。
タマさんの18番、限りなくシゴキに近い「道場磨き」も、ハミ出しっ子が世の中のキビシサを知るには、よかったのかもしれないなあ(笑)。
あ、ところで、今の話にも出しましたが、どなたか「小山尚子」さんの消息を知りませんか?
何年か前の「フラスコ会」で、本田和子=ホンちゃんと久々にあって盛り上がり、「カナ(小山さんの愛称)って、どうしているんだろう」という話になったんですよ。10年くらい前、突然電話をもらって、個人的な話をちょっとだけして、それから私も引っ越してしまって音信不通になっているのですが……。
どなたか、彼女のことを知っている人がいたら、このブログを通して教えてくださいね。
Posted by 樹林ゆう子
樹林さんの「授業についての感想」
楽しく読ませてもらいました。
私も樹林さん同様、授業の事はよくおぼえていません。
記憶に残っているのは、友達のこと・至楽荘のこと・修学旅行のこと・部活のことなど勉強以外の事が多いですね。
つらい思い出だって当然ありますし。
あえて授業の事を取り上げるなら、頭の良い人がいるんだなと関心したことだね。
ただし、その人とは先生ではなくて、生徒、つまり同級生。
同じ環境で、同じ教材を使って、同じ先生に習っているのにもかかわらず、こんなに頭の出来が違うものかと感心したものでした。
もちろん普段の努力の違いが大きいんだけどね。
私は、附属小・附属中で、物事をいろいろな角度から視ること・考えることを身につけたような気がします。
斜め後ろから考える事が好きだったかな?
そしてそれは、その後の私にとって大きな財産となっています。
「附属の勉強はすばらしかった」
「学校はつまらなかった」
「勉強以外はおもしろかった」
「記憶にない」
など、様々な発言が出ております。
でも、それは自分の中で「認知」している部分であり、もしかしたら知らないうちに「洗脳」されていた部分もあったのでは?と思います。
「勉強しなかった、学校つまらない」と言いながら、「んじゃあ、この根性はいつ誰によって養われたのだ?」ってことになると、「中学か??」となる。
みなさまも、何か思い当たるフシがあったらブログでも個人的なメールでもかまわないのでぶっちゃけてください。
ユカとよく一緒にいた高村です。
申し訳ありませんが、小山さんの連絡先などを、編集委員メンバーは把握していません。
ユカとは、今でも連絡をとっていますか?
ユカと連絡をとっているなら、ユカ経由で高村までご連絡をお願いします。
一人見つけた、という気分です。
コメントありがとうございました。
ひさびさに書きこみます。
カナ、生きていたんですね。
10年くらい前に電話を受けたときは、
たしか私は門前仲町のマンションで
お風呂にはいっていました。
懐かしいですね。
あれから私もいろんな状況がかわって、
いまは二児の母・・吉祥寺に住んでます。
どこかでホンちゃんともども会って
あれから10年間の近況報告会でもできるといいですね!
上に、私のサブ・メールアドレスを
くっつけておきました。
迷惑メールがくるようなら廃棄してしまってもかまわないアドレスなので、公開しました。よかったら連絡先等、書きこんでみてくださいね。
では☆樹林
メアドをコメント書き込み欄にくっつけた
んだけど、なんかどうやってみるのか
わかんないんで、もっかいここに書きます。
matsuzakirikabon@yahoo.co.jp
です。どーぞヨロシク。
☆樹林