附属校としての役割って?
公立校のモデル校としての注目度が大だった私たちの頃に比べ、今の附属校の実態はどうなのでしょうか?
ほとんどの私学は中高一貫になり、公立もその動きが出始めている昨今、旧態依然としている附属校。
(予算のことなど、ネックがあるんでしょうね。広大な大学の敷地内に附属高校ができ、小金井は中高一貫が始まる、というウワサが何度も立ちましたが(^_^;))
時代をリードし、教育の先端を突き進んでいた勢いはどうしてしまったのだろう??
あの自信と誇りはどこへ行ってしまったのだろう??
時代が変わり、価値観や生き方が変われば教育も変わっていかなくてはならないものと思います。
犯罪の低年齢化や、公立校の学級崩壊や非行。これらの問題は教育の場である学校の先生の協力を抜きにして解決できるとは思えません。
そのようなことは家庭での躾の問題だ、という声がたくさん聞こえてきそうですが、もちろんそうです。
ただ、社会そのものがさまざまな問題を抱え、大人も迷い、教師も迷う、といった混沌とした状況下で感受性の強い時期を過ごしている子どもたち。
心理学の世界では、感受性の強い人間にそのしわ寄せが行く、という考え方があると聞きました。
・・・なんて、これでは身も蓋もない希望のない話しになってしまいますが、私の考え方は逆で、優秀な人間を育てることを一つの柱とすると、いわゆるはみ出てしまった子どもたちを育てる教育がもう一つ、柱として欲しい、ということです。
きちんと授業を理解し、校則に従い、友達ともトラブルを起こさない子どもたち。
一方で、授業は聞かない、校則は破る、ケンカ大好き、またはいじめ、不登校、無気力、非現実への逃避。
後者の子どもたちは常に学校から厄介者扱いされ、レッテルを貼られてしまう。
ついてこられない生徒に構っている暇はない、甘ったれているんじゃない、、と言ってしまってよいのかな、と思います。
このタイプの生徒の指導教育ほど、逆に高度なテクニックと情熱を要すると思うのです。
教育の最先端を担うべき「先生を育てる学校」の「附属校」には「不良集団クラス」なんていうのが1クラスぐらいあってもいいんじゃないか、なんて思うわけです。
濱中先生、どうでしょうか??
附属小の役割は教育のあるべき姿の理想をいかに実践させるかなのかもしれませんが、公立のように様々な家庭環境におかれた子供達を指導している先生方の生活指導面での模範になれていたとは考えにくいです。高校に入って外部から来た友人に言われました。「思うことがはっきり主張できてうらやましい。今までの私は周りに気を使い言葉を選び、場合によってはその言葉を飲み込まないとやっていけなかった。」と。
私も子供達には、自分の意見を主張できることが素晴らしいことだと言ってきましたが、公立に通っていた二人は、「お母さんの言うとおりにすると、失敗することもあるよ。もう、言うとおりにはしない。」と言われました。正論でも、1人だけ孤立する覚悟をしても言うことなのか判断をし、場合によっては根回しが必要であり、不要な波風は立てないのが鉄則のようです。私だけが脳天気だったのかもしれませんが、何でもいえる附属の雰囲気・他人の言うとおりただ動くのではなく、自分で考える姿勢・ことさら言われなくても個人を尊重する土壌、これらは、同じ生活レベルの子供達が集まっていたからこそ受け入れらるモノだったのではないでしょうか?そのような子供達を集めての教育は公立に比べれば、格段にやりやすいと思われます。生活指導はしなくてもほとんど大丈夫だから。
本来生活面は親が見るモノで、教育は学習面だけのことを指すのでしょうか?学校は勉学の他に、やはり人とのコミュニケーションを学ぶ場だと思います。学習指導要綱はあっても、生活指導要綱って無いのでしょうか?
学校にだけそれを押しつける気は毛頭ないし、子供達を取り巻く周囲の大人がしっかりかかわるべきだと思いますが、一日のうちの多くの時間を学校で過ごす子供達への先生の影響はとても大きいと思います。附属の役割は、その先生の卵をしっかり育てるところだと私は今まで思ってきました。だから、教育実習がたくさんあるんだと。先生の通信簿もそのうちできるようになり、自分の指導方法を見直す研修会も開かれると聞きます。若くても頼りになる先生がそれぞれの自信と誇りを持ち、たくさん活躍して下さることを心から願います。