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楽しかったあの頃〜東京学芸大学附属小金井中学校を卒業して
1974年春。東京学芸大学附属小金井中学校を卒業。あれから30年余り。
恩師・濱中正男先生を囲んで、卒業生たちが当時を振り返り、言葉を寄せます。
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2005年07月20日
当時を振り返って
当時を振り返って・・・
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附属中の思い出・・・久保島 嘉
posted by フラスコ会 at 19:24|
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振り返って
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この記事へのコメント
勉強は私には大変だったけれど、学校生活は、コームと一緒で2Dバンザイ、かな。
とにかく放任ハマチュー(濱中先生ゴメンなさい、ハマチューと呼ばせてください)のおかげで、自由で何でもできてみんなで盛り上がってサイコーだった。
合唱コンクールも、当時、宮永先生が眉をひそめるような選曲をして、強引に押し通し(ハマチューがいいと言ってくれた)優勝したのがカイキョだった。
ヨーゾーとか松崎くんが頑張ってくれたんだっけ? 放課後自主練とかやったよね。
カスミちゃんのソロの美声、今でも覚えてるわ〜
カモとルイのバトルもおもしろかった。
卒業してからの飲み会でもやってたよね。
今あのふたりが会ったらどうなるのか見てみたい(^_^;)
握手でもするのかな??
(カモ、ルイ、ごめん、あなたたちのおかげで楽しかったんだよ〜)
ともかく、個性派集団で、言いたいことが言い合える、楽しくって風通しの良いクラスだったのでしたー。
Posted by マキ at 2005年07月31日 19:05
ガッコの話といえばやっぱ授業かな〜と思い、授業についての感想を書くべくいろいろ思い出そうとしたんですが、どうもあんまマジメに聞いてなかったようで、コームラやマキムラのようにディティルが思い出せないんだよねぇ。
てか、本当にあんまり、いやもしかすると全然、授業を聞いてなかったのかもしれない。
目を開けて寝ていたか(大学卒業まで続けていた私の得意ワザ。ただし、無理やり開き続けていると机とかノートがぐるぐる回りだすことがあり、気分が悪くなります)、あるいはほかのことを考えてたか……。
ゴメンナサイ、諸先生方。
──がっ!そんな私も、フチム先生の国語は好きでした。
それというのも当時から創作の道に進みたいと思っていたんで(カッコつけてますが、要するに漫画家志望だったってだけです)「シャレたセリフとか書くのに、国語がバカじゃダメだ」とか思って、ちょっとは勉強するつもりもあったんですね。ハハハ。
「籠よ み籠持ち 堀串もよ み堀串持ち……」と朗々と読み上げるフチム先生の姿には、“俺って本当に、萬葉集とかが好きなんだぜ”という気配が漂っていて、そういう生き方って素敵、と思ったりしてました。
教師でも、好きで教師やってる人と、生活のためにやってる人と、両方いるわけで、フチム先生は絶対前者だったと私は思います。
そうそう、マキムラも書いていたけど、社説の品詞分解はけっこうな労働でしたよね。でも、あんなことでもなけりゃ私はマンガばっか読んでて新聞なんて読まないんで、「へー、世の中こんなコトが起きてんだ」とか感じ入ったりして、新鮮だったです。
「キャラ立ち教師」ナンバーワンは、なんといっても美術の伴勝雄先生。
風景画の時間に「地べたと空の区別がついてないじゃないか」と怒られたの、覚えてますか?
緑色が「ビリジァン」なんていうこじゃれた名前で呼ばれているなんていうのも、伴先生に教わったコトのひとつ(笑)。
ちなみに、学校の中心部からちょっと離れた美術室の隣には、先生のお部屋(執務室)がありました。
その秘密めいた部屋はなんとなく気になる存在で、ある時、ちょっとした用事にかこつけて休み時間、覗きにいったことがあるんです(本田和子と、小山尚子が一緒だったような気がする)。
先生は当時、高タール煙草の「しんせい」を愛しておられた。
部屋は煙草の香りと油絵具の香りがいりまじった、複雑な大人の匂いが充満していました。そして、狭い室内には先生の「個人的な作品」が何点か、並んでいた……。
それを観たとき、声には出しませんでしたが、(えっ?)と思いました。伴先生の油絵は(あくまで私の印象ですが)、暗くて、複雑で、内向しているように見えたのです。
子供には窺い知れない本質めいたものがそこにあって、なんか伴先生のイメージがちょっと変わってしまった。
今にして思うと芸術家なんだし、ひとりの大人としていろいろ抱えてたわけだから当たり前ですが、大人の奥深さなんて考えたこともなかったから、軽いカルチャーショックだったな。
懐かしいですね。
こうしてどんどん記憶をひもといていくと、学校という、ひとつの抗し難いルールのなかで動いている小さな社会が、私は「苦手」だったな、とそんなことも思い起こします。
友達や、先生たちが個人的に苦手だったのというのではなく、学校という固まりから発せられる「ハミ出してはいけない感じ」や、「前向きな感じ」が苦手だったともいえます。
いま私のところには、ある漫画家志望の不登校の少年が、ときどき作品を持って現れます。
彼をみていると、彼が学校に行かない理由と、私が昔、学校という固まりが苦手だったってことが、なんとなく似ている、と思うことがある。
もしかすると私が今の時代に中学生だったら、3日に1回はサボッていたかもしれない。あるいは、全然いかなくなっちゃったかも……。
そうしなかったのは当時の付属中学の発するパワーのお蔭だったですね。
パワーといっても、正直言うと「学校サボるやつは落伍者だ!」的な意味でのパワーというか、抑圧が大きかったかな。
それが8割で、残り2割が強力な安心感。「学校に来ていりゃ、とりあえず安心」みたいな、家庭の次に自分を守ってもらえる場所なんだなってことが、頼もしくおっかない
先生たちから感じ取れたんだと思います。
いまの不登校の子供は、そういう抑圧も、安心感も、学校という固まりから感じ取れていないのかも……。
かつて「ハミ出しっ子」だった立場からいうと、「ハミ出しが許される状態」って、いいことじゃない気がする。
付属中学は強く正しくまっとうな生徒が多かったから、自分がハミ出しているのだと自覚させられたし、それが許されずにキツかった面はありますが、どうにか折り合いをつけられてよかった。
それすら放棄していたら、厳しい社会の荒波の中でどうして生きていけただろう、と不登校の子供に自分を重ねて思う今日この頃です。
タマさんの18番、限りなくシゴキに近い「道場磨き」も、ハミ出しっ子が世の中のキビシサを知るには、よかったのかもしれないなあ(笑)。
あ、ところで、今の話にも出しましたが、どなたか「小山尚子」さんの消息を知りませんか?
何年か前の「フラスコ会」で、本田和子=ホンちゃんと久々にあって盛り上がり、「カナ(小山さんの愛称)って、どうしているんだろう」という話になったんですよ。10年くらい前、突然電話をもらって、個人的な話をちょっとだけして、それから私も引っ越してしまって音信不通になっているのですが……。
どなたか、彼女のことを知っている人がいたら、このブログを通して教えてくださいね。
Posted by 樹林ゆう子 at 2005年08月07日 01:38
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カモとルイのバトルもおもしろかった。
卒業してからの飲み会でもやってたよね。
今あのふたりが会ったらどうなるのか見てみたい(^_^;)
握手でもするのかな??
(カモ、ルイ、ごめん、あなたたちのおかげで楽しかったんだよ〜)
ともかく、個性派集団で、言いたいことが言い合える、楽しくって風通しの良いクラスだったのでしたー。
てか、本当にあんまり、いやもしかすると全然、授業を聞いてなかったのかもしれない。
目を開けて寝ていたか(大学卒業まで続けていた私の得意ワザ。ただし、無理やり開き続けていると机とかノートがぐるぐる回りだすことがあり、気分が悪くなります)、あるいはほかのことを考えてたか……。
ゴメンナサイ、諸先生方。
──がっ!そんな私も、フチム先生の国語は好きでした。
それというのも当時から創作の道に進みたいと思っていたんで(カッコつけてますが、要するに漫画家志望だったってだけです)「シャレたセリフとか書くのに、国語がバカじゃダメだ」とか思って、ちょっとは勉強するつもりもあったんですね。ハハハ。
「籠よ み籠持ち 堀串もよ み堀串持ち……」と朗々と読み上げるフチム先生の姿には、“俺って本当に、萬葉集とかが好きなんだぜ”という気配が漂っていて、そういう生き方って素敵、と思ったりしてました。
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「キャラ立ち教師」ナンバーワンは、なんといっても美術の伴勝雄先生。
風景画の時間に「地べたと空の区別がついてないじゃないか」と怒られたの、覚えてますか?
緑色が「ビリジァン」なんていうこじゃれた名前で呼ばれているなんていうのも、伴先生に教わったコトのひとつ(笑)。
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その秘密めいた部屋はなんとなく気になる存在で、ある時、ちょっとした用事にかこつけて休み時間、覗きにいったことがあるんです(本田和子と、小山尚子が一緒だったような気がする)。
先生は当時、高タール煙草の「しんせい」を愛しておられた。
部屋は煙草の香りと油絵具の香りがいりまじった、複雑な大人の匂いが充満していました。そして、狭い室内には先生の「個人的な作品」が何点か、並んでいた……。
それを観たとき、声には出しませんでしたが、(えっ?)と思いました。伴先生の油絵は(あくまで私の印象ですが)、暗くて、複雑で、内向しているように見えたのです。
子供には窺い知れない本質めいたものがそこにあって、なんか伴先生のイメージがちょっと変わってしまった。
今にして思うと芸術家なんだし、ひとりの大人としていろいろ抱えてたわけだから当たり前ですが、大人の奥深さなんて考えたこともなかったから、軽いカルチャーショックだったな。
懐かしいですね。
こうしてどんどん記憶をひもといていくと、学校という、ひとつの抗し難いルールのなかで動いている小さな社会が、私は「苦手」だったな、とそんなことも思い起こします。
友達や、先生たちが個人的に苦手だったのというのではなく、学校という固まりから発せられる「ハミ出してはいけない感じ」や、「前向きな感じ」が苦手だったともいえます。
いま私のところには、ある漫画家志望の不登校の少年が、ときどき作品を持って現れます。
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